チャチャポヤス文化の特徴(埋葬文化2)

チャチャポヤス文化は西暦500年くらいから1600年くらいまでの間にペルー北東部、アマゾン川上流のマラニョン川とワヤガ川に挟まれた地域を中心に栄えました。ただ、チャチャポヤス文化の特徴である円形住居はコロンビアからコスタリカにかけても散見され、彼らと同じか関係のある部族がかなり広い地域に渡って活動していたと考えられます。

彼らは戦闘民族として知られ、1470年のインカ皇帝トゥパック・ユパンキによる征服時にも激しい抵抗を示したとインカ年代記に記されています。おそらくは部族間の戦闘やアマゾン流域の他民族からの襲撃に備え、戦闘力を上げてきたのでしょう。

一口にチャチャポヤス文化と言いますが、チムー王国やインカ帝国のように強大な王が支配する統一された国家ではなく、その埋葬方法から実は多くの家族血縁集団に分断された社会であったことが分かります。以前に紹介しましたが、チャチャポヤス文化の埋葬方法は2種類あり、個別埋葬方式は地域の最大の遺跡であるクエラップ遺跡から北部に見受けられ、さらに墓によって棺桶の形体、色彩、描かれている文様が違います。クエラップ遺跡から南部では集合墓地方式がとられており、北部とは違う部族であったと考えられます。

この、クエラップ遺跡が境界、という考えは、その発掘に長期間関わってきたアルフレド・ナルバエス博士の説です。クエラップ遺跡は、クエラップ城塞遺跡とも呼ばれ、古くから砦の役割を持った遺跡であったと考えられてきました。見晴らしの良い小高い丘の頂上に作られた遺跡の壁は19メートルに達し、壁外には投石器から発せられたと考えられる石が多数見つかっています。また、遺跡内では多数の遺骨も発見されていることから、おそらくは戦闘・防御が主な目的であったというのが定説です。しかしナルバエス博士によると、防御のための施設はあったがそれ自体が目的ではなく、クエラップは宗教的な儀式を司る神聖な施設であったと言います。というのも、もしクエラップが城塞であったのなら、何から何を守っていたのかが不明なのです。守るべき集落からは離れた位置にあり、アマゾン側にしろアンデス側にしろ、敵対部族からも遠いようです。部族間の争いのための城塞であるとすると規模が大きすぎます。また遺跡内の住居の立て方が、城塞ぎりぎりに建てられおり、戦闘には適しない(邪魔である)ことも挙げられます。

博士は、投石器からの石は雨乞いの儀式に使用されたと考えています。石が落ちて転がる音がちょうど雷のように響き、雨を呼ぶという考えです。それは遺跡内の宗教施設と石を投げたと考えられる場所が近いことからも推測されます。おそらくはクエラップは何か宗教的な意味の強い神殿であり、様々な儀式が行われる場で、それを部族間の境界である場所に作り、ある意味中立地域として尊重したのではないか。まだまだ推測の域を出ませんが、クエラップが埋葬方式の違う部族の境界であることはおそらく間違いないでしょう。

チャチャポヤスに吹く風は

ペルー北東部「霧の中に住む人々」が築いたチャチャポヤス文化やこの地の今を紹介します。

0コメント

  • 1000 / 1000