レイメバンバ博物館

私が経営するカサ・マルキ・ミュージアムロッジは、レイメバンバ博物館敷地内にあります。元々は、レイメバンバ博物館の収蔵物の研究や保存の活動をしていた研究者のための宿泊施設で、博物館と同じ建築家がチャチャポヤス・コロニアル様式を採用して設計しました。

さてこのレイメバンバ博物館ですが、主にコンドル湖遺跡から発掘されたチャチャポヤス文化、チャチャポヤス・インカ文化の遺物を収蔵し、その研究と保存、一般への公開を行っています。オープンは2000年。コンドル湖遺跡発見から4年後のことでした。

コンドル湖遺跡が実際に発見されたのは1996年のことです。偶然の結果発見した村人は、折角未盗掘のチャチャポヤス文化の遺跡であったにも拘らず盗掘を行い、ようやく町の政府組織が気付いた時には既に盗掘者に荒らされてしまっていました。そうして「湿度の高いアマゾン雲霧林で(有機物である)ミイラ発見!」というセンセーショナルなニュースが全世界に広まりました。その後、ようやく文化庁(当時は国立文化研究所)が呼びかけ、何人かの研究者が名乗りを上げる中で、ペルーミイラ研究の第一人者で、多くのミイラを保存する博物館をすでに運営していたNGOセントロ・マルキの代表であったソニア・ギジェン博士が指名され、その調査がスタートしました。

当初プロジェクトは遺跡で見つかった遺物の棚卸と記録だけで、その保存までは含まれていませんでした。しかし、先に述べたようにすでに盗掘者が入り多くの遺物が汚染され損壊の危機にさらされており、さらに盗掘者だけでなく観光客やジャーナリストが多く入ってくるようになっていたため、遺物の損壊と流出の恐れあり、ということで、急きょ全ての遺物を近隣の村、レイメバンバまで運んで保全することになったのです。

因みに、この時ギジェン博士に進言したのは現地調査チームのリーダーであったモニカ・パナイフォ女史でした。当時も今もレイメバンバ博物館は女性がリーダーシップを発揮していて、プロジェクトトップのギジェン博士やこのパナイフォ女史の他、ロジスティックリーダーのアドリアナ・ボン・ハーゲン博士、後に博物館館長となるエンペラトリス・アルバラード女史、遺物保全チームのリーダーマルセリータ・イダルゴ女史等々、プロジェクトの中心は女性たちでした。

話が逸れましたが、こうして膨大な量の遺物をレイメバンバに運ぶことになったのですが、課題は山積みでした。現地には当然水道もガスも建物すらありません。お風呂もありませんから、コンドル湖での水浴びです。現地調査チームはテントに寝泊まりし、飲料水、食料、ガスなど全てレイメバンバから運び込みました。しかし、一口に一番近い町がレイメバンバだと言っても、実は遺跡から町までは馬で12時間の道のりでした。少しは道が整備された今でこそ10時間の道のりですが、当時はまさに道なき道を往く、の体でした。

しかも雨が降る。この地域はアマゾン雲霧林といい、乾季と雨季の差はあっても基本的に一年中雨が降ります。コンドル湖遺跡の遺物のほとんどは、ミイラ、ヒョウタンを使った椀や筒、布など湿気に極端に弱く、移動中雨に濡れないよう細心の注意が必要でした。研究者と村人達が協力し合い、一体ずつミイラを馬に乗せて、石と泥で足場の悪い道を歩いて12時間、傷つかないように濡れないように細心の注意を払いながら運搬し、全て運び終えて現地調査チームが撤収したのは97年10月、3ヶ月にわたるプロジェクトでした。この間、一体の損壊なく、チームに事故も大きな怪我もなく調査を終えることができたのは、ひとえに何かの加護があったからだ、と、ギジェン博士は今も感謝の気持ちを忘れません。

レイメバンバにやってきたコンドル湖遺跡の遺物は、一旦セントロ・マルキが借り上げた民家に保管されました。これらを適切に管理するためには、やはり施設を整える必要がある、ということで、ギジェン博士率いるセントロ・マルキが中心となって、博物館建設のために寄付金集めに奔走することになりました。

レイメバンバに、つまり現地に博物館を建設するという考えは地域振興政策に基づいていますが、ここで文句を言い始めたのはチャチャポヤス市の政府関係者でした。彼らとしては、この世紀の発見をぜひとも県庁所在地であるチャチャポヤス市に持ってきたい。様々な嫌がらせがあったそうです。一度などは、深夜2時に、チャチャポヤスの警察、検察、そして大学関係者がレイメバンバに入り、こっそり遺物を持ち出そうとしたこともあったそうです。この時、それに気づいた女性が教会の鐘を打ち鳴らし、町中の人々が遺物を守るために立ち上がって、彼らを追い返したそうです。

様々なトラブルがありつつも、その後、ウィーン大学のホルスト教授が中心となったオーストリアの有志の皆さんやイギリスの生物人類学財団、ナショナルジェオグラフィック、ボン・ハーゲン博士のご家族などから続々と寄付が集まり、博物館建設の運びとなりました。ちなみに219体のミイラが眠る空調完備の部屋は、日本においてこれらのミイラが展示された際に支払われたレンタル料(?)で完成することができました。

コンドル湖遺跡からの遺物の移動、町中での保管に団結力を示した人々はここでも力を見せます。博物館建設にはレイメバンバの町民だけでなく、近郊の村々の多くが参加し、子供や女性たちも石を運んだり、働いている人に料理をふるまったりして協力しました。

また、専門家の方々もこの博物館建設に情熱を見せました。設計を担当したホルヘ・ブルガ、ロクサーナ・コレア建築士の両名は、レイメバンバの伝統的な建築様式と周辺の景観に配慮した博物館づくりを目指し、その成果は今日の見事な景観に現れています。

こうしてレイメバンバ博物館は2000年6月、コンドル湖遺跡発見から4年を経て完成しました。博物館の正式名称は、Museo Comunal Leymebamba(レイメバンバ共同体博物館)といい、開館から19年経った今でも、代表はレイメバンバ博物館協会という村民から成る組織で、博物館員は全員レイメバンバの村人で構成されています。ペルー国政府からの援助は受けておらず、全くの独立した博物館として運営されています。

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